・坂本は、比叡山の延暦寺により、おおいに隆盛しました。
山麓の上坂本は、僧3千人と言われた延暦寺への物資補給、天台宗一門の事務管理の中枢機能を担い、行政都市としての性格とともに、延暦寺や日吉大社の参拝客の為の門前町として商店が賑わい、家数は2千から3千、人口は上下坂本を合わせて数万を有する大都市でした。中世に入ると、下坂本は湖上交通の港として、各地の山門領からの年貢米などが荷揚げされ、また京都への物資の中継基地としても繁栄しました。。しかし、織田信長による比叡山焼き討ちにより、坂本の町は壊滅的な被害を受け一面焼け野原となりました。近世に入り、延暦寺の老僧を中心に麓の坂本に住居を構えるようになり、独特の里坊群のまちなみが形成されました。里坊とは、比叡山で修行を続けていた僧が、高齢となって、山麓(里)に賜った隠居所のことです。 |