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★瀬戸大橋を身近に見る本島は、瀬戸内海をフェリーで渡る、おだやかな船の旅は心が安まります。
★この島の男達は、勇敢で、時代の読みに鋭く、自らの知力、行動力で、信長、秀吉、家康から朱印状を受け、どこの藩にも属さず、天領でもない住民主体の自治国家を300年以上も持続させました。古くは建武2年(1335年)足利尊氏は、鎌倉に反旗を翻し京へ上った時。これに呼応し、西から細川定禅は、讃岐の香西氏と共に京に攻め昇りました。この時の足利軍を海上支援したのは塩飽の水軍(海賊)です。 |
★室町時代、伊予能島の村上水軍は大内氏を支援していました。村上氏は交流のある塩飽水軍も大内氏に従うよう説得しました。当時大内氏は、”明”から「大日本国王」の印を受け、勘合貿易船を明に派遣していました。航海技術のすぐれた塩飽水軍はこれに乗り込み“倭寇大将軍”として活躍したのです。実力をつけた塩飽水軍は、戦国時代、輸送船団として、信長の石山本願寺攻めに味方し、堺港へ出入りする特権を得、秀吉の島津攻め、北条攻め、朝鮮出兵に協力し、その報酬として領地や金品でなく、自治権や漁業権(網運上銀と称す)を獲得しました。 |
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これにより塩飽の人々は、どの藩にも属さず、年貢を納める必要のないばかりか、近海で漁業をする漁船から網運上銀と称する年貢を徴収する権利を得ました。自治は、塩飽諸島は住民650人の共有財産として住民の中から選ばれた4人の年寄たちによって政治が行われた塩飽勤番所は、全国で他に例を見ない自治領を統治した住民たちの政庁です。入母屋造り本瓦葺きの重厚な長屋門を潜ると徳川家康の朱印状や貴重な海図が保存されています。
★町は、集落の東に城山、西に西山、南に遠見山に挟まれた北西に瀬戸内海に広がる入り江にあります。 |
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左 真木氏宅スケッチ
画:安楽 秀典 |