トピアリーの町入来麓
                    スケッチした場所の地図
                      

   nn交 通  鹿児島中央駅よりバス70分 九州自動車道姶良ICより40分   
所在地  鹿児島県薩摩川内市入来町

 

入来は奈良時代以来、薩摩、大隅の両国府を結ぶ要衝に位置し、人や物が「入り釆たる」というのが地名の由来だとされています。入来麓は、中世の山城である清色(きよしき)城を背景にその山裾の小高い山々に囲まれた盆地に位置する静かな町です。
約620年間、 人 来院氏が治め、中世、近世の街並みと武家屋敷を残しています。
入来麓は、19haに約100戸が立ち並び街路に面して積まれた美しい石垣が往時をしのばせる武家屋敷町です。

江戸時代には1国1城に定められていましたので、薩摩藩は外城制度として武士が日頃は農民として居住していた集落(麓集落)をつくり城下町のような役割を持たせていました。入来麓のほか知覧麓、出水麓などがあります。道路沿いは、町内を流れる樋脇川から採取した角のとれた小さな石を積むので玉石垣と呼ばれる石垣で囲まれています。角ぼった大きい石は根の部分やおさえの上の部分に多く、真ん中部分の大きな石は小さな丸い石で囲むように配置されています。幅は1mほどあり砂を背後につめ高さ1nほどに積み上げています。石垣の上の生垣には茶を植えることが多く、家を目隠しし、家の中から外は見ることができます。茶の木は根が真下に伸びて石垣を守ります。最近は成長の早いイヌマキなども使われています。生垣はよく管理され様々な形に仕立てられています。トピアリーの町ともいえましょう。
石垣は道路から敷地内に、門から玄関にたどりつくまでに2度も3度も折れ曲がるように設計してあります。茅葺屋根の武家門が残っているのは、入来院氏の家臣団筆頭である庶流入来院氏宅です。現在の入来小学校の場所には御仮屋がおかれ、そのつくりは鹿児島城下にある鶴丸城を模したものといわれています。濠や広馬場が設置され、今も目にすることができます。道は、敵を惑わせる析形(ますがた)があり、T字路の突き当たり部分に設置した石敢嘗(せっかんとう)と書かれた中国伝来の魔よけ(敵よけ)の石柱なども垣間見ることができます。

街路がまっすぐに延びるところが近世、曲がりくねっているのが中世の特徴です。両方の時代が併存する町並みは全国でも珍しい町です。1軒あたりの平均の土地面積は約1000uにおよび、庭園は枯山水が多い中で、両氏邸は池に水が入る数少ない泉水庭園です。
入来郷土館に展示してある丸に十字の島津家の家紋をあしらった漆塗りの豪華な収納具、長持(ながもち)などは、幕末、島津久光の姫君が入来院家に嫁いだ時のものです。人来院家から島津家に嫁いだ人もいました。
入来の名前が欧米の研究者にも知られるようになったのは、比較法制史を米国で研究していた朝河貫一氏の英文の著書「入来文書」がきっかけです。入来院の本家、分家が保管していた年貢や軍勢催促状、訴訟関係書類など膨大な古文書を入来で書き写し、土地を媒介とした荘園制、封建的主従関係が欧州だけでなく、日本にも存在したことを資料によって裏付けました。